3月11日に東日本大震災、翌12日には長野県北部地震が発生し、20回目の伏し目を迎える春の日本選手権シュガーボウルの開催自体が危ぶまれる。日本全体に自粛ムードも漂う中、JTFAは復興支援大会と位置付け、収益を全額寄付することを決定。甲信越予選も新潟市内で開催。ピークスは新潟ゲッツに勝利し、東日本大会行きを決めた。原発事故の影響で練習場所確保に苦慮する郡山女子大の遠征を受け入れ、ピークスは#10、17の女子メンツを交えて久しぶりにミックスユニットで交流戦を実施した。震災をめぐっては、関東・東北連盟が毎年おこっている交流戦を、震災の影響を避けるため甲信越連盟で受け入れる―との計画が浮上。東日本全体の交流を促進するため、ピークスは協力を位惜しまない所存だ。

 迎えた東日本大会は一度の雨天順延後、5月に埼玉県の文京学院大ふじみ野キャンパスで開催。震災の影響で、関東は例年のリーグ戦は行わず、トーナメントを勝ち抜いた3チームとピークスでトーナメントを行い、シュガー出場権3枠を争った。東北連盟は欠場となった。
ピークスは初戦の準決勝で、関東2位のバトルアルマジローズと対戦。オフェンスにミスが続き、試合巧者のアルマジにゲームを支配される格好となり、18vs38の大差で敗れた。立ち上がりの弱さは深刻で、その後の3位決定戦を通じて、キックオフリターンTDを2本決められたのは大きな反省点だった。
 回った3位決定戦は関東1位のオヤンズ。2005年のファイナルタッチ以来の対戦。何より、オヤンズとはチーム草創期に合同で合宿を行うなど、共に上を目指してきたチームであり、正直、やりづらかった。しかも、過去、三度敗れている3位決定戦だけに、チームの緊張感は相当だったと記憶する。
 3Qまで両チームのオフェンスが譲らない接戦。終盤、オヤンズがピークスからターンオーバーを奪い、試合が決まったかに見えた次のシリーズで、ピークスがターンオーバーを奪い返す一進一退の攻防となった。残り1分を切りピークスがTDを奪い、TFPも決め、36vs35で1点リード。オヤンズの最終攻撃をしのぎ、勝利をもぎ取った。3位決定戦のトラウマを打ち破る、創部史上、最も印象に残る試合となったことは間違いない。
 久しぶりの東日本大会突破。古参メンバーの喜びは相当だったが、何より、ここ数年で入部された若手に勝利の喜びを味わってもらえたことが良かった―。地方チームで人材供給が思うようにいかず、メンバーの高齢化が進み、将来のチーム存続への懸念も出始めていただけに、価値ある1勝だったといえる。チームの士気は否応なく上がった。
 
 02、04年に続き3度目の出場となったシュガーボウルは5月21日、横浜スタジアムで開催。初戦は、前年ファイナルタッチでコテンパンにやられたライズ2003(関西2位)が相手だった。
 前半、オフェンスが思うようにドライブできず、かつ、ディフェンスが大量失点を許した。後半こそ拮抗したが、時、既に遅し…。21vs42のダブルスコアで敗北した。セオリーに捕らわれず、得点を奪い合う「殴り合い」を買って出るぐらいの意地と気迫が必要だと痛感。
 
▲ベスト6#13篠部のタッチダウンキャッチ

 決勝は、ライズと新鋭ラファーガという関西勢同士、聖和大OB同士の対戦となり、兄貴分のライズが優勝。タッチ界の「西高東低」を印象づける大会となってしまった。順位決定戦がなかったため、ピークスの成績は全国5位タイ。試合結果の一方で、何度もロングパスを奪い取り、ライズのDB陣を翻弄し続けたWR#13篠部がベスト6に選ばれた。
 東西を勝ち抜いた6強が集うタッチ界最高峰の大会、それがシュガーボウル。大会を覆う雰囲気の高貴さは、各連盟に出場枠を与えられた冬のファイナルタッチとは比べものにならない。この雰囲気を再び味わいたいと、メンバー誰しもが思った。


 
 春の日本選手権・シュガーボウル2010の甲信越予選は千曲市内で開き、NKSウィングスは欠場。対新潟ゲッツ戦は19対14で薄氷の勝利で東日本大会出場を決めた。パスディフェンスに重点を置く相手に対し、オフェンスが思うように機能しない課題を浮き彫りにした。
東日本大会は初戦、初対戦のEDITE EULB。シュガー出場には1日3試合で2勝以上が不可欠。高齢化が進むピークスは、前半に突き放し、後半、主力を休ませる省エネ戦法で、30対24の僅差で1回戦を突破。回った準決勝は、1年ぶりの対戦となるリベンジャーズが相手だった。
 「負けてもともと」と臨んだ一戦。ロングパスを積極的に仕掛けた結果、互いに点を奪い合う予想外の展開に―。#13らWRがリベディフェンスと対等に渡り合った。34対44で最終的に敗れたが、王者とここまで競った試合ができたのは初めてではないか。互いにボールコントロールしない試合だったことから、試合時間は伸び伸びとなり、メンバーの疲労はマックスとなってしまった。
 回った3位決定戦は荒川ワイルドリバースが相手。ここで勝利すればシュガーだが、04年に勝ち抜いて以降は、05、06年とこの3位決定戦で敗れているだけに、一抹の不安を抱えながらの試合だった。結果は6対27で完敗。またしてもシュガーを逃す。なお、同年のシュガーは会場の都合などから、アミノバイタルフィールドで開催された。
 
 秋のファイナルタッチ甲信越予選は千曲市内で開き、新潟GETSを30対0で完封。会場の都合から初めてエキスポフラッシュフィールド(大阪府)で開かれた全国大会に出場した。初戦は、06年春以来の対戦となる宿敵・レーザービーム(関東2位)だった。
30vs42で敗退。手の内を知り合う試合は、4Qまで互いにTDを取り合う「点取り合戦」。ただ、TFPの取りこぼしでTDを重ねる度にじわじわとレーザーが点差を広げていった。逆転には2TDが必要となった残り2ミニッツを切っての攻撃で、ピークスは決定打となるインターセプトを喫し、万事休す―。30対42でまたもレーザーに屈した。拮抗した試合だっただけに、大変残念だった。
 迎えた敗者戦は関西1位のライズ2003。ライズは今大会のダークホース的存在だった名古屋外国語大ニトロホークスに敗れていた。ライズは随所に2本目と見られるメンツを起用。試合全体として緊張感も薄かったと記憶する。さりとて、実力差は明らか。結果は34vs56で敗戦。大味な試合に終わった。一方、オールスターには#2、18、89の3人をディフェンスに投入。18が2インターセプトを関西から奪い、注目が集まった。
 
 この年の公式戦の通年勝率は、ファイナルの2連敗が響き、草創期を除く2000年以降では初めて5割を切った。対戦の妙もあり、今季より内容の悪いシーズンがある一方、勝率以上の結果を残したシーズンもあり、一喜一憂する必要はないが、それでも数字を突きつけられると、厳しいものがある。「頭打ちの状態から脱したい」と思いながらも、高齢化、若手不足に対抗する手段も浮かばず、気持ちはメルトダウン―。
 同大会は、前述のニトロホークスが地方勢として初優勝を飾り、喜ばしい反面、台頭する「若い力」を前に、気持ちはさらになえていった。ピークスはこのまま終わってしまうのか…。

 
 出直しの2009年。4月、千曲市内で開かれたシュガーボウル甲信越予選を突破し、東日本大会に出場。相手は、東日本の雄・東京リベンジャーズ。ピークスが同予選に初出場した1998年、66vs6とコテンパンにやられた相手だが、この試合があって、今のピークスがあると言っても過言ではない。気を引き締めて臨んだ。
 序盤は攻守とも拮抗したが、ハーフタイム直前にキックオフリターンタッチダウンを奪われると流れはリベに―。3Q早々、流れを引き戻そうと放ったスペシャルプレーをリベ#21にインターセプトされ、勢いを止められた。38vs12で敗退。実力差を思い知る。この年のシュガーボウルは関東から、リベ、オヤンズ、つくし野コルポンズが出場。切磋琢磨を続けるオヤンズが準決勝で関西1位のライズ2003を破り決勝に進出。決勝ではリベに敗れたものの、全国にその名を響かせた。「先を越されてしまった」―。この時の実感である。

 夏場、JTFA東海連盟主催の東海サマーキャンプ(@岐阜県・各務原スポーツ広場)に参加。東海から名外大ニトロホークス、愛知ボニート57S、名古屋ウッドフェニックス。関西からは強豪の関西アゥイリーズ、聖和大サンダーヘッドがエントリー。計6チームが2ブロックに分かれリーグ戦を行い、ピークスは総合2位と、まずまずの成績だった。この時、決勝で戦った聖和大生が、現在、関西で活躍する新鋭チーム・ラファーガの主力となっているようだ。
 
▲信州人には暑すぎる。東海サマーキャンプ

 11月、新潟市内で開いたファイナルタッチ09の甲信越予選は無難に突破。前年、初めて地方勢に敗退を喫し、新たな気持ちで臨んだファイナルタッチ(@千葉マリンスタジアム)は、初戦、初対戦の中四国代表の鳴門教育大が相手。前半で大量リードしたことから、後半は主力を下げ、36対18で逃げ切る。続く2回戦は関東2位のバトルアルマジローズだったが、26対6と完敗した。過去、それまで勝率的には五分のチームだが、終始、アルマジペースの試合展開だった。そのアルマジを、次戦のライズ2003がいとも簡単に攻略する様を目撃し、閉口。関東・関西勢との実力差を思い知らされた。「敵の背中が見えなくなった」―。正直、焦りを感じ始めた大会だった。

 
 春の甲信越予選はゲッツに28vs14で勝利。進んだ東日本大会はバトルアルマジローズにまたもや逆転され18vs20で敗戦。「何をやっているんだ俺たちは…」。そんな叫びがメンバーから漏れた気がする。だが、このころからアメフット経験者を中心に新メンバーの加入が目立つようになった。元プロフットボーラーで米子のタッチチームで活躍していた#10の電撃移籍加入というビッグニュースも…(単に#7と結婚しただけですが)。
 
 新しいメンバーを迎え臨んだ秋。ところがここで不測の事態が発生する。QB#7が事もあろうに義弟の結婚式に参加するため、ファイナルを欠場するというのだ。つまり、#10の弟の結婚式に出るわけで、「#10!あんた何しに来たんだ、こら」との怒号が巻き起こった。チームで方向性を確認した。「くさるのではなく、新たなチームの可能性を見出す、絶好の機会ではないか」
 
 秋の甲信越予選は、かつて02年のミックス全国優勝の際にQBを務めた#22にQBを任せた。年齢からは想像もできないほどの俊足を生かし、ラン攻撃主体のオフェンスで臨んだ。ゲッツ戦は途中逆転を許すなど厳しい展開となったが、28vs13で辛勝。ウィングスは44vs0で勝ち抜いた。ミックスはこの予選とバッティングし、ミックス編成以来初の予選欠場となった。
 
 迎えたファイナルタッチ。#7に加え、#27、59も私事で欠場。主要メンバーを欠いたまま、地方bP死守を目指したが、初戦、東海代表の名古屋外大ニトロホークスに20vs27で敗戦。公式戦で地方勢に破れたのは初めてのことだった。その後の交流戦でも広島オイスターズに6vs19で完敗。夜の部では、誰ひとり、ゲームを振り返る者はおらず、重苦しい空気が流れた。ただ、孤軍奮闘した#22の「楽しませて貰った」との言葉に、ものすごく救われた気がした。失うものは何もなくなった―。そして、ピークスは15年目のシーズンに突入していった。
 
 春の甲信越予選はゲッツに27vs12、ウィングスに56vs0でそれぞれ勝利し、東日本予選へ。初戦、荒川ワイルドリーバース戦は終盤に逆転を許し、またも34vs40で敗戦。近年、関東勢に対し、僅差の逆転負けが相次ぐ。尊敬するチームのメンバーからは「何をやっているんだ」とお叱りの言葉を受けた。

 秋季甲信越予選はゲッツに28vs6、ウィングスに52vs6で勝利。ミックスは関東甲信越予選で冨士山デトックスに0vs12で完敗した。ファイナルタッチは初戦で東海代表の愛知ボニート57‘sと対戦。27vs13で勝利し、地方bPの面目を保つ。二回戦で再びライズ2003(関西3位)と対戦。ディフェンスは一定程度の力を見せるが、オフェンスがまったく機能せず、6vs32で完敗した。

▲ファイナルタッチ2007(千葉マリンスタジアム)
 
 チームの柱・#13が私事により一時休部することが年頭明らかとなる。「#13がいなければなにもできないとは言わせない…」。そんな思いでシーズンのスタートを切った。ただ、衰えも著しい#21をRBに充てるなど、ちょっと起用は大胆すぎたか―。
 春先、関東強豪の赤いチームとの合同合宿開催に成功。メンバー一同、感激。実りある合宿だった。春の甲信越予選は新潟ゲッツに21vs0で勝利。東日本予選は1回戦で古豪・バトルアルマジローズと対戦。敵エースの怪我など敵失により20vs8で突破。続く二回戦はレーザービームと対戦したが、またも27vs19で接戦をものにできず。まわった三位決定戦、前年と同カードとなったコルポンズ戦は終了間際に逆転され、25vs31で破れ、またもシュガー行きを逃した。


 夏場、兵庫県内で開かれた関西連盟のミックス準公式戦に参加。さらに琵琶湖畔で関西強豪が集結した合宿にも参加。タッチ王国・関西の強さを思い知るとともに、西日本勢との交流を深めるなど有意義な遠征となった。

▲米子シグナス戦(琵琶湖畔にある農村グランド)


 #13は予定通り復帰。秋の甲信越予選は新潟ゲッツに25vs6で勝利(@新潟市内、ウィングスは棄権)。ミックスは関東甲信越予選で冨士山デトックスに12vs20、レッドサーモンズに0vs13と2連敗を喫し、東日本進出を逃した。迎えたファイナルタッチは04年シュガーで対戦した聖和大OBで編成するライズ2003(関西3位)。一本差まで迫ったが終盤突き放され18vs30で破れた。この際、#21、ゲーム中の接触で左膝負傷。さらに夜の部で負傷個所を悪化させ、後に、左腓骨骨折、および左膝前十字靱帯断裂と判明。年明け靱帯再建手術を受け、長期離脱―。

  
 年明け、Jフラッグ東海大会出場。東海スナイパーズAに38対39で敗戦。7−8位決定戦で東海スナイパーズBに26対26の同点。女性タッチダウン数も同点で、コイントスの結果、敗北。1月末、宇奈根にて、オヤンズ、レーザービームと練習試合。オヤンズは37対31で辛勝。レーザーは40対40の同点に終わる。グラウンドのぬかるみがたたり、大味な空中戦であったが、結果には満足した。

 4月の甲信越予選は、連盟史上初めて新潟県内で開催。ウィングスは欠場。この大会で#22と27を入れ替えるなどポジションの大幅なコンバートを行った。結果は、33対0でゲッツに勝利し、東日本行きを決めた。

 東日本予選(@宇奈根)。宿敵と言ってもいいでしょう、レーザービームとの初戦は激しかった。前半はオフェンスが優位に立ち、後半はピークスきってのDL陣が爆発、26対22で対レーザー初勝利をあげた。しかし、ここで過去の悪い癖が出る。「負けても3位決定戦」と臨んだバトルアルマジローズ戦は、後半、オフェンスのキープレイを押さえ込まれ21対28で逆転負け。まわった3位決定戦も、コルポンズにやはり追いつかれ同点でタイムアップ。TFP合戦は、「経験」と「思い切り」に破れ、トータル4対1×で敗北。3度目のシュガー出場を逃し、結成10年目の「はれ」を迎えることができなかった。試合後の#13の涙を、私は一生忘れない。


 春の悔しさをバネに、夏場に挑む。新設の東京支部をフル稼働させ、関東勢を中心にスカウティングも精力的に行い、データの蓄積を進めた。こうして臨んだ秋季。

 オープン・甲信越予選はNKSウィングスを82vs0、新潟ゲッツを48vs7の大差で破り全国へ。一方、ミックスは東日本予選に出場。関東オープンのピンクサーモンズに8vs18で敗戦も、バトルアルマジローズに12vs6で勝利。3チームが一勝一敗で並び、得失点差で東日本代表決定戦進出を逃した。
 迎えたファイナルタッチの会場は、かつてベスト4進出を果たし縁起の良い千葉・青葉の森公園。初戦・オヤンズ(関東3位)は33vs13で勝利。二回戦はレーザービーム(関東2位)。一進一退の攻防の末、24vs34で敗戦し、春のリベンジを許した。

▲ファイナルタッチ2005初戦、オヤンズ戦(千葉・青葉の森公園)

 
 現在のオフェンスの基礎となるプレイブックがようやく完成、「ピークスガン」と命名(自己満足)。オフェンスの核となる#7、13、22、27、32らの特性を引き出す内容と自負する。同年から、女性QBとして#5の養成を開始。

 春の甲信越予選(@飯綱高原)はウィングス戦(52対0)、ゲッツ戦(19対6)とも勝利し、東日本大会へ。1回戦、横浜国立大アメフット部OBでつくるVマスティフスと対戦、26対7で勝利。迎えた2回戦はガルーダ。QB笹川氏一人に走り回られ、40対12で大敗。まわった3位決定戦は、エースQBが負傷欠場したバトルアルマジローズと対戦し19対6で勝利。「何となく」2度目のシュガー出場権を得た。

 5月、シュガー(@横スタ)1回戦で西日本2位・聖和大サンダーヘッドと対戦。ディフェンスが踏ん張り、6対0と一本リードで前半を折り返す。初めて関西勢に対し勝利を意識したメンバーのハーフタイムのミーティングは鬼気迫るものがあった。後半はピークスのレシーブスタートもTDに結び付けられず、一進一退の攻防に。3Qにサンダーヘッドがリードを奪うも、4Qにピークスが追いつき12対12の同点に。しかし、逆転のドライブをインターセプトされ再びリードを許し、最終的に26対12で破れた。正直、「金星」を取り損ねた試合だった。


↑白熱のサンダーヘッド戦(関西連盟HPより頂戴)


 脱力で迎えた5−6位決定戦は関西のドラゴンスクリュー。27対18で勝利し、最下位を脱出。国内タッチの「5本の指」に入ったことには満足。#27が優秀賞に。

↑2度目のシュガーで初の1勝を上げた


 8月、サマーキャンプ(@信州スカイパーク)開催。ガルーダ、オヤンズ、グラディエーターが参加。Jフラッグ東日本大会(@小机)は1回戦、保健科学大学チーム・ビーダッシュに46対40で敗北(ビーダッシュはこの後優勝)。敗者復活戦で常総タイタンズに49対18で勝利。2回戦でホッピーズに25対0で敗北、タッチ連合に6対6で引き分け(順位不明)。

 秋のオープン甲信越予選は、新潟県中越地震などの影響懸念から、会場を予定の新潟から長野市に変更。ゲッツが不参加となった。ウィングスに45対0で勝利し、ファイナル行きを決定。ミックスは12月、関東・甲信越予選(@宇奈根)に出場、リヴァイアサンに58対0で大勝するも、準決勝でバトルアルマジローズに19対6で破れた。その後、ファイナル前にグラディエーターを招き、合同メージを実施、ともに勝利を誓う。

 12月ファイナル(@千葉マリンスタジアム)は1回戦、宿敵ガルーダ。笹川氏なしのガルーダとの初対戦となった。オフェンスは序盤、調子良かったが、痛いところでのペナルティがひびき(私です)、思うように加点できず。後半もたつき、ロースコアゲームに陥った結果、13対12で敗北。思えばガルーダに公式戦で一度も勝ったことがない。一同、激しい落胆に襲われた。敗者戦は初対戦の米子シグナス。34対6で勝利も、いとむなし…。

↑千葉マリンで記念写真

 
 オープンの全国上位進出を具体的目標とし取り組む。練習はタッチを優先とし、フラッグは女子、新人の試合経験を積む場と位置付ける。一方、オフェンスは「ウエストコースト」「ブレッド&バター」を目指し、練習を積み始めた。3月、雨の関西遠征。奈良マスケッターズに勝利、スレイズとハーフ戦を行い同点に終わり、まずまずの出来。この際、声をかけて下さったマスケッターズの中部さんがこのほど亡くなられたと聞く。ご冥福をお祈りします。
 
 甲信越連盟に新潟ゲッツが正式加盟。4月、春のオープン甲信越予選を勝ち抜き(スコア不明)、同月、東日本大会(@宇奈根)出場。再びレーザービームと対戦、一進一退の攻防の末、29対20でまたも逃げ切られる。

 初夏、東海・中部連盟の招致で愛知県内へ遠征、グラディエーター、ボニートなどと対戦。勝利はしたものの、結成間もないグラディエーターの急成長に驚かされた。この遠征で私、左小指を骨折。
 8月サマーキャンプ(@信州スカイパーク)開催。ボニート、ゲッツが初参加するなど史上最高の7チームが参加。ホームのピクニック広場で開いたBBQは大いに盛り上がった。(HP担当の#18は右足ひ骨を骨折)
 
 秋のオープン甲信越予選も勝利し(スコア不明)、ファイナル行きを決定。一方、ミックスは、予選を関東と共催で行うこととなり、11月、関東・甲信越予選に出場。1回戦シードで二回戦にレーザービームを主体とする「ちぇるしーず」と対戦。レーザーQB犬塚氏の巧みなパス&ランと女性陣のキャッチ力の前に20対6と完敗した。同大会で優勝したバトルアルマジローズも女性メンバーの成長が著しく、もはや、前年のように小手先で勝てるレベルではなくなったと悟る。

 ファイナルタッチ(@千葉マリンスタジアム)は1回戦、仙台ラスカルズ(東北)と対戦。先取点を奪われ、一進一退の攻防となる。パスオフェンスが研究されつくしており、急きょ、後半から極端なラン主体のオフェンスをしいた。あるシリーズはすべてHBのダイブをコールしTDしたほど。驚愕のQBランも乱発。これが功を奏し、20対12で逃げ切る。嫌な雰囲気を抱えたまま臨んだ二回戦は宿敵ガルーダ。1回戦の流れそのままに劣勢を強いられた。特に敵のラッシュに太刀打ちできず、32対12で敗北。ゲーム中に衝突事故を起こした#22が肋骨を折り、地元の病院に入院するなど、ひじょうに後味の悪い大会となった。
 


#13のラン 『仙台ラスカルズHPより頂戴』

 
 年明けJフラッグ東日本予選(@東京ヴェルディ1969クラブハウス)は、松本ピークス、チームTCのダブルユニットで出場。チームTCは1回戦ガルーダに26対25で勝つも、準々決勝でインディペンデンツ2001に15対32で破れる。ピークスは、1、2回戦を勝利(スコア不明)し、準決勝で日本のアメフット界を支えるスーパー選手が何人もいた鹿島ディアーズと当たり、32対20で破れ、ともに決勝T進出を逃した。

 4月のシュガー甲信越は問題なく通過し(スコア不明)、5月の東日本大会(@宇奈根)へ。1回戦は古豪ファイターズ(関東)に19対6で勝利し準決勝進出。しかし、前年末に競り負けたリタイアサン改めレーザービームに20対6で敗北。前年同大会同様、風やグラウンドなどのコンディション悪化で得点力が極端に落ちるパス偏重オフェンスの欠点を再びさらす。まわった3位決定戦はオヤンズと当たり、27対18で逃げ切り、オープンとして初めてシュガー行き切符を手中に。

↑東日本大会で3位になった直後のピークスメンバー(宇奈根)


 5月、シュガーボウル(@横浜スタジアム)出場。1回戦は二度目の対戦となるレッドクロスで、来ると分かっているハイパーオフェンスにやられ48対25で敗北。まわった5−6位決定戦でまたもレーザービームと当たり、大接戦となった。この試合の様子を#84が当時、HPに次のようにつづっている。

 「レーザービームとの対戦は、交互に得点を重ねる好ゲームとなった。1Qピークスが先制するも、2Qにレーザーが2TDをあげて逆転。後半それぞれ1TDを重ねた残り2ミニッツにピークスは#22のランを効果的に織り交ぜゴール前に迫り、残り1分40秒にTDをあげ同点に追いつく(TFPは失敗)。が、レーザーは残り時間をWRへのタイミングパスやQBランなどで十分使いながら進み、残り4秒から決勝のTD。最後は実力と試合経験の差が出た結果となった」―。残り4秒のTDパスをあおいだのは#49であった。レッドクロス戦でインターセプトTDをあげた#18が個人賞を獲得。全国6位と最下位に終わったが、夕暮れの照明が入った横浜スタジアムに立てたことを、メンバーの誰しも誇りに思った。選ばれし者が集う、それがシュガーボウルである。

↑初めての出場となったシュガーボウル

 夏場、NFLではやり始めたバンチ体型をオフェンスに導入。このころから形に拘らず、メンバーの特性を引き出すオフェンスを求め試行錯誤を繰り返す。タッチは依然として「過渡期」のスポーツである。アメフットよりも戦略上の自由度は数倍高い。もはや派生ではなく独立した競技ではないか。将来、「ピークス」と呼ばれるほどの独自システムを目指そう…との思いに至る。

 8月、サマーキャンプをウィングスのホストで、志賀高原で開催。ガルーダ、オヤンズなどの常連に加え、グラディエーター(東海・中部、04年解散)が初参加。11月、タッチ本格参戦を目指す新潟ゲッツを迎え、ファイナルのオープン甲信越予選と交流戦を開催。ゲッツには26対0で勝利。ウィングスには70対6で快勝、ファイナル行きを決めた。

 一方、ミックスは、協会理事会で、男子QBのプレイに大幅な制限をかける現在のルールの適用が決定、アスリートQB不在のピークスには絶好の機会を得た。ファイナル出場権をかけたウッドフェニックス戦は6−0で逃げ切り勝利。女子QBと男子QBを効果的に使い分けるオフェンスと、ロースコア戦を予定しパントで立地的優位に立つ作戦がはまった。ルールの特性が浸透していない中で、個人的には、その後達成する全国制覇は予想内の出来事だった(まじで)。私、この試合で肋骨を骨折。

 協会10周年で迎えたファイナルは初めて西宮スタジアムで開催。奇しくも、取り壊し予定の同スタジアムの最後のイベントであった。個人的にはコルセットを巻いての出場。オープンは、関西の雄ジャンブルに40対20と大敗、ハイパーオフェンスへの対応が急務となった。敗者戦は仙台ラスカルズに27対6で勝ち、面目を保つ。一方、ミックスは戦略がはまり、初戦のくぼたうなぎ(関東代表、本名バトルアルマジローズ)に6対0で勝利。決勝、東北芸工大戦も8対0で勝利し、全国制覇達成。最優秀選手賞に#17が選ばれた。同夜、激しく酔っぱらい、我を忘れるメンバーが続出。

 
 4月のシュガー・オープン甲信越予選は54対18で危なげなく勝利。同月、東日本予選(@宇奈根)はガルーダと対戦するも33対12で敗北。おりからの強風に、パスオフェンスが全く機能せず、かつ、ガルーダオフェンスの笹川氏(現・オヤンズ)一人にやられたと記憶する。

 6月、関東のチャレンジマッチ(@宇奈根)に参戦、スーパーフリークス、荒川ワイルドリバースに連勝。この直後から、行き詰まりを感じ始めたオフェンス改革に着手、現在のピークスガンの原型となる「スーパールーズオフェンス」を編み出す。その実態は、#7の肩と、#3、22のキャッチ力に特科、「空いたところにストライクを投げる」という「超お気楽ショットガン」であったが、発想の大転換をもたらしたという点で忘れることができない。

 8月、サマーキャンプ(@とくら荘)には名古屋ウッドフェニックスを除き前年と同じ顔触れが集まる。初使用となった「スーパールーズ」が功を奏し、非公式戦ながら初めてガルーダに勝ち、チームの士気は高まった。#49沈没(しばらく常習化した)。

 同月、Aフラッグ東日本予選に松本ピークスとチームTC(善光寺と松本城からテンプル&キャッスルの意)の2ユニットで参加。ピークスは、アブイニッツに52対12で勝利するも、G7学びに26対45で敗北。チームTCはガルーダに32対12で破れた後、バトルフィーバーJに57対0で快勝、ともに一勝一敗で並んだ。奇しくも兄弟チームが決勝Tの残り一枠を争う結果となり、女性のTDが多かったチームTCが決勝トーナメントに進出した。決勝T、チームTCは1回戦ジェッツ(46対14)、2回戦インディペンデンツ&バリエンテス(37対26)と勝ち上がり、準決勝で、同大会優勝の法政一高トマホークチョップスと対戦、接戦の末33対26で惜敗。まわった3位決定戦、G7学びに26対25の一点差で勝利し、全国3位のタイトルをものに。古厩、柳沢のお騒がせコンビが攻守に大活躍した大会だった。

 11月、ファイナルのオープン甲信越予選(@ラーラ松本)は、36対16で勝利。愛知県内で行ったウッドフェニックスとのファイナルミックス出場権をかけた予選は、ピークスが勝利し、ミックスとして初の本大会行きを決めた。このころ私は、右手親指付け根を骨折。

 12月のファイナルは初の千葉県立青葉の森公園で開催。#49の結婚式二次会で勢いを付けてから乗り込んだ。オープンはくじ運に恵まれ、初戦、ウッドフェニックスに26対19で勝利し、準決勝へ。ミックス1回戦はスレイズと当たり、24対6で敗北。3位決定戦にまわり、東北芸工大に18対13で勝ち、全国3位となった。二日目オープン準決勝リタイアサン戦は、終盤までもつれたものの37対25で敗北。破れはしたが、さらに上位進出を誓うに値する内容だった。ディフェンスは秀逸のひと言に尽きる。この時期、一皮むけきれずもたつくオフェンスをディフェンスが引っ張っていた感があった。

 
 年明け早々、フラッグ全国大会・Jフラッグ(@小机)に参戦。中大アメフット部員で構成するチームだいすけに33対16で快勝(このころからアメフットとタッチ・フラッグは、別の競技であると個人的にはようやく自覚)。二回戦、当時フラッグ界の優勝常連であった守谷タッチクラブと対戦し34対40で競り負ける。冬のオフ明けから、女性単独チームでのタッチへの出場準備を始めた。

 4月のシュガー甲信越予選は、オープンのみ行い、57対18でウィングスに快勝。東日本大会(@宇奈根)は、オープン、女子の2部門に出場。オープンは1回戦、荒川ワイルドリーバス(関東)=同大会で東日本制覇=と対戦、13対26で敗北。突破できない関東の壁に一同いら立ちを覚える。敗者戦でリタイアサン(現・レーザービーム)に32対41で敗北。一方、女性陣は初の公式戦で東北芸工大と対戦。7対19で破れるも、枠の調整で、ピークス史上初めてのシュガー行き切符が女性陣に与えられた。

 5月、シュガー(@横浜スタジアム)1回戦、関西学生1位の聖和大と対戦した女性陣は47対0の完封を喫し敗北。続く敗者戦もアンジェリックアラムニー(関西一般)に6対81の大敗。技術、体力とも違いを見せつけられた大会だった。

 7月、Aフラッグ参戦(@小机)。初戦で再び守谷タッチクラブと当たり、37対24で敗北。敗者戦で東京J倶楽部と対戦し33対18で勝利。8月、サマーキャンプ(@とくら荘)開催。ピークス、ウィングス、ガルーダ、オヤンズに加え、名古屋ウッドフェニックスのメンバーも一部参戦。ガルーダ越えは果たせず。#58のぞき事件発生。

 10月、当時はフラッグを主体としていた新潟ゲッツを長野市に招き、初の甲信越、タッチ・フラッグ交流戦を実施。同時に行ったファイナルのオープン甲信越予選は、55対6で快勝した。一方、ミックスのファイナル出場権をかけた東北芸工大、ウッドフェニックス、ピークスの三つ巴戦(@松本)は、事実上の決勝となったウッドフェニックス戦で終了間際にTDを奪われ敗北した。

 12月ファイナル(千葉マリンスタジアム)1回戦は、立命館大学シールズの全国制覇OBらで構成するスレイズと対戦。#59がコーディネートするディフェンス戦略がはまり、2Qまで一進一退の攻防を繰り広げた。後半突き放され57対24で敗北するも、一同手応えを感じた。#42が最も機能した大会でもあった。

同大会の様子を、#2が当時、HP上でこう表現している。「結果はともかく初めてうちのチームは弱くないということが実感できたような気がする」―。敗者戦は磐田と一年ぶりに対戦、45対12で危なげなく勝利。「地方ナンバー1」の冷やかしはこのころから定着。

 
 さらなる飛躍を期しユニフォームを一新、現在の「ピークスブルー」が誕生。モデルは当時のNYジャイアンツ。私は個人的に思い入れのあるチームだが、ピークスで採用したのは単に「かっこいいから」だったと記憶する。加納、古厩、竹内、小山ら女性メンバーが初入部。オープンメンバーも次々増える一方、ようやく基礎トレーニングの成果が出始め、フットボールっぽいことが出来るようになった。



 春の甲信越予選は危なげなく勝ち抜き(スコア不明)、東日本大会(@宇奈根)へ。初戦は、岡氏が去ったリベンジャーズであった。この時も、なぜかピークスは先取点を奪取。チーム一同舞い上がった後、じりじり引き離された。それでも19対41というスコアに大満足…(今考えれば、リベの単なる低迷期にすぎない)。敗者戦でバトルアルマジローズ(関東)と対戦し、19対38で破れるも一同大満足…。勝ち星には恵まれなかったが、チーム再生のきっかけをつかんだ気がした大会だった。
 

↑99年、静岡遠征。暑かった…  

 8月、ピークスとして初めての遠征となる静岡遠征を敢行。前日入りし、「荒磯料理」で大いに盛り上がる。しかし、その後宿泊した民宿の灼熱地獄に眠れぬ夜を過ごした。迎えた交流戦、名古屋ウッドフェニックス(東海・中部)に26対0、浜北カッツアゲイン(所属不明)に29対6で快勝。このころまでに入部したスーパーアスリート#3と#22の活躍が際だった。このころのオフェンスは、がちがちのフットボール。フリーズオプションまで飛び出していた(笑)。

 同月、初めてフラッグフット全国大会・Aフラッグ(@小机、横浜総合競技場)に参戦、女性メンバーの初舞台となった。ハドル中、「中身を聞かれないように」(?)と、メンバーが「ウーン」とハエのようにうなり続ける不思議なチーム・大阪フレデリックス(所属不明)に32対20で敗北。東海スナイパーズ(現在もフラッグ界で活躍)に26対14で勝ち、「全国13位」という、フラッグ初のランキングを手に入れた。


↑Aフラッグ1999の会場となった横浜国際競技場
 
 さらに同月、鳥羽氏の長年の夢であった、異連盟間の交流などを目的としたサマーキャンプを初開催(@ラーラ松本)。ウィングス、ガルーダ(関東)、後にオヤンズ(関東)参加した武田氏が参加。大いに刺激を受けた。


↑第1回サマーキャンプが行われたラーラ松本横のグランド
 
 11月の甲信越予選。ウィングスとオープン、ミックスを行い、オープンは43対0で快勝。ところがミックスはゼロ後進の末、終了間際に喫したセイフティの2点で敗北。ミックスを主導した#22や女性メンバーの落胆は大きかった。
 12月のファイナル(@千葉マリンスタジアム)オープン1回戦は関西学院レッドクロス(関西)。初の関西勢との対戦。アスリートQBが自在に動き回る「関西流」に圧倒され33対6で敗北、新たな対応を迫られる。敗者戦は、初戦でガルーダに競り負けた熊本フェイクス(九州)と当たり、54対6で大勝。打ち上げを幕張の居酒屋で挙行、総額10万円を超える大宴会となった。

↑ファイナルタッチ99

 
 初春、私(#21)、#7、22、32ら第二世代が相次ぎ入部。このころの練習は、隔週日曜開催で、内容も今思えば語るに及ばない内容だった。春のシュガーボウル甲信越予選でウィングスを接戦の末破り、東日本大会(@宇奈根)に出場。今日ではタッチ界の伝説的存在となっているQB岡氏(同年引退)率いるリベンジャーズと対戦、66対6と大敗した。当時のピークスオフェンスは、QB鳥羽氏を中心にエクスチェンジのタイト、ワンバック体型。パスプロテクションの技術も未熟で、ラストシリーズまでファーストダウンを一度も取らせてもらえない屈辱的な敗北だった。#7がタイト、#21がRB・WR、#22がCBだったというのも、今では考えられないポジショニングで笑える。


 リベンジャーズ戦大敗直後の打ち上げでチーム再生を求める声が続出し、練習方法や戦術等の改革に着手。オフェンスでは、投手出身である#7をQBに抜擢、#22をWRに起用した。一方ディフェンスは、試合経験の不足からあるべきシステムが見いだせず試行錯誤が続いた。

 秋のファイナルタッチ甲信越予選もウィングスに辛勝。

 ファイナルタッチ(@千葉マリンスタジアム)オープン初戦のコルポンズ(関東)戦は、先取点をものにするも、関東の好WRとして現在も君臨する渡辺氏にやられまくり6対33で敗北。


  まわった敗者戦は7→22のホットラインが爆発し、磐田マットガルパーズ(東海・中部)に38対26で、全国レベルの大会で初の勝利をあげた。この日、千葉市内の居酒屋(つぼ八だったか?)で開いた打ち上げは大盛況。


ファイナルタッチ98でコルポンズWR渡辺氏を追う現#32(右)と引退した#1

 引退した通称・シンゴ(当時#1)の攻守、場外にわたる活躍も見事だった。結成以来まとった赤ジャージを着た最後の大会でもあった。ちなみに鳥羽氏が前歯を折り、病院送りとなった。その後、一時的に一部でマウスピースやインジュリーパット等の使用が流行った。


 
 大学時代にタッチフットの経験があった鳥羽氏(99年引退)とその友人らで松本を拠点に結成。まずもって、松本平にタッチの産声を上げさせた鳥羽氏のこの功績に感謝したい。「ピークス」の名称は、山好きでもあった鳥羽氏の思い入れと聞く。当時を知るメンバーは現在、#2、58、84のみというのも、時代の流れを感じさせる。
 
 このころ、甲信越連盟はピークスと、東信を拠点とするNKSウィングスの2チーム。そのウィングスはミックス日本選手権の第1回(1993年)、第2回(1994年)を連覇した強豪であり、男子を中心に争うオープンでも、ピークスは常に胸を借りる立場だった。

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タッチフットボールチーム 松本ピークス